夜明けまえ 窓を開けると、心地好い夜風が通った。 刹那はしばらく、その冷たい風に吹かれながら、目を閉じた。そろそろ春もその足音を響かせる頃、しかし日没後はまだ肌寒い。 目を開けると、大して美しくもない夜景が広がっている。商店街の街灯とアーチが、かろうじて秩序性を感じさせるが、あとは静かな住宅地。美しい夜景を求める方が無理ではあるが、こんな時には目を楽しませてくれるものが欲しい。 代わりに視線を空の方へとやると、半月をやや過ぎた下弦が、弱い光を放っていた。遠くに、オリオンの勇者も見える。 「…………」 刹那は窓を閉めて、勉強机に向かう。広げてあったワークには戻らずに、小学生の頃に使っていた理科の教科書を取り出した。パラパラとページを捲ると、星座の早見表が出てきた。それを、たった今見上げた空と重ねてみる。…三ツ星のオリオン。それにまつわる伝説が一つ、紹介されていた。 怠惰な兄と堅実な弟の話。兄は罰を受けて地獄に流され、もう二度と這い上がる事はできなかったと言う。弟は老婆に導かれ、その流れからは脱出した……。 伝説紹介のコラムに目を通し終わってから、もう一度教科書のオリオンを眺める。三ツ星は、兄弟と老婆を表しているそうだ。どんなに空を廻っても、決して追いつけない人々。伝説は、古人が若者達へ向けた戒めの説話だが、それだけではない、胸にぐさりと打ち付けられるものがあった。 怠惰であった覚えはないのだけれど。 大切な存在と、二度と会えぬほどの大罪を犯してしまった自覚はある。 その罪の意識に夜な夜な魘されながら暗黒のうちに生きるのを地獄と呼ぶのなら、この神話は正しく自分たちを指していると思う。 弟は自分と戦い、運命という死神に手を引かれて、もう自分の手の届かない所へ行ってしまった。 怠惰であった覚えはないのだ。 ただ、ずっとずっと一緒にいたかっただけなのだ。 泣く時には傍でその涙を拭えるよう。笑う時には共に声を上げられるよう。 一緒にいたかっただけなのに。 教科書をぱたりと閉じた。途端、知らずに流れていた涙が、古びた表紙に一つ落ちた。ビニル加工された厚手の紙の上を、とろとろと涙は滑っていった。ぽたん、と自分の指に、紙から流れた涙が落ちる。それが、怠惰な兄の行きついた地獄の欠片のようで、手を軽く振り払う。 一緒にいたかっただけなのに。守りたいと願う事ばかりで守りきれなくて。 失った痛みだけが、まだ胸の奥を締め付ける。 もう一度空を見上げると、追いつけない三ツ星の一番端が、涙でかすんで見えた。 |