雪の一輪

 幼い頃の母の記憶は、どれも暖かい微笑みに溢れている。
 学校で嬉しいことがあった時。つらいことがあった時。悲しいことや許せないことがあった時。いつもいつも、母のいる真っ白な病室で、日が暮れるまで語っていた。

「そう、そうなの」

 母は話を聞きながら、相槌を打ち、時には諭し、時には慰め、でも多くは共感してくれた。いっぱいの笑顔と一緒に。
 死と病の立ち込める病院は、そこだけ花に満ちているような、そんな感覚を覚えた。その白い病室だけが、唯一、自分の心開ける場所だった。

「偉いわね、刹那」

 そう言って、頭を撫でてもらえるのが嬉しかった。そして、好きだった。
 それは多分、隣にいた永久も同じだったに違いない。母に甘えるときの弟の表情は、どんなときよりも幼く、年相応だった。

「あ、兄さん、雪だよ」

 病院からの帰り道、永久を空を見上げて言った。白く冷たい結晶が、ひらひらと舞い降りて来た。鼻先に落ちたそれは、微かにひやりとした感触とともに、溶けた。

「今夜は、冷えるね」

 白い息を吐きながら、永久はそれでも楽しそうだった。
 その夜は、少しだけ雪が積もった。
 翌朝、学校では級友らが大騒ぎをしていた。

 それからしばらくして、母は死んだ。

「雪は…母さんを迎えに来たのかな……」

 黒い喪服に身を包んだ弟は、ポツリとそんな事を口にした。
 永久は灰色の遺影を見つめながら、夢を見ているような目をしていた。

「春になったら…母さん…帰ってきてくれないかな……」

 それきり膝に顔をうずめて静かに嗚咽を漏らし始めた弟を、ただ見つめてやるしかできなかった。慰め方がわからなかった。
 弟の肩をそっと抱きしめて、言葉も見つけられないままに黙っていた。
 ただ、涙をこらえて、痛いほどわかったのは、永久を独りにしてはいけない。それだけだった。

 母が亡くなってから、今年で三年。
 季節は夏だが、今日もあの時と同じように真っ白な雪が降り続いている。世界は狂っていた。
 校庭の隅の椿の花が、もう咲いてしまった。その雅やかな紅の上に、雪は深深と降り積もる。

『雪は母さんを迎えに来たのかな』

 永久の言葉が甦る。もし、彼の言葉が本当だったなら。
 自分も連れていってはくれないだろうか。
 明日の朝までここに立ち尽くしていたら、寒さは自分の体温と魂を、遥か空まで持っていってくれるだろうか。

 ―――くだらない…。

 頭を振って思考を取り払った。雪に濡れた髪は、少し重たかった。
 椿の花に背を向け、校門へと向かう。
 …家で、永久が待ってる。独りにしてはならないから、ここにいつまでもいるわけにはいかない。きっと、遅い帰りを心配しているだろう。

 ―――じゃあ永久がいなかったら?

 ふと、そんな疑問が心を過ぎる。
 椿を振りかえった。一つ、花がぽとりと落ちた。

「…………知らない」

 さくりと雪を踏みしめて、今度こそ校門へまっすぐに歩いた。

−FIN−