ラグナロク

 僕らの棲家は、暗い。
 世界のいちばん下の、そのまた下の闇に浮かぶ迷宮。
 それが僕らの棲家。ディープホール。

「兄さん、お帰りなさい」
 黄昏色のアーチが掛かった玄関をくぐると、すぐ下の弟のベリトが迎えに来ていた。
「や、お迎えごくろーさま」
 僕は片手を軽く上げる。
「夕飯の準備はできていますよ。召し上がりますか?」
「もちろん。ありがと」
 食べること、遊ぶこと。それ以外に僕の楽しみはない。

 一瞬の眩暈に包まれると、すぐに百年が過ぎるほどに、時と切り離された場所。
 そしてまた夢幻を見る間に、気がつくと元の場所へ戻っていたりもする…。

「…ねえ、ベリト」
 食堂まで続く廊下を歩きながら、ベリトを見上げて言った。この弟は、何故だか使い勝手が良いという理由で、僕よりも身長が高くなっている。
 ある程度、身体操作ならできるのだ。
「昨日の夕飯はなんだっけ?」
 何気ない口調で訊ねると、ベリトはちょっと首を傾げる。
「ペガサスの肉の炒め物でしたけれど…それが何か?」
「ううん、聞いてみただけ」
「はいはい」
 軽くあしらう口調。

 つい先日、僕の親友の娘と息子がメシアとして戦った。
 娘は父親である僕の親友を探し出すために。
 息子は、彼自身の大切な肉親を助け出すために。
 そして最後に、二人とも世界の選択を迫られた。

「わぁ、おいしそー」
 食卓に並ぶのは、僕の大好きな生き血のスープだった。
「兄貴ってば遅い」
 既に食卓についていたフェゴールが頬を膨らませた。
「あはは、ごめんごめん」
 可愛らしい末弟の仕草に口元が弛む。
「お早めに召し上がって下さいね」
 ベリトが席につきながら言う。
 そして、三人で食卓を囲んだ。
「いただきます」

 メシア達は、まだ幼かった。
 世界の行く末を見守るほどに、彼らは強くなかった。

「フェゴ、そんなにこぼしちゃダメですよ」
「あーい」
 そう言いながらも、スプーンの端から野菜がボロボロと落ちる。ベリトが一つ溜息をついて、ナプキンで拭ってやった。
「んー、だしが美味しいね」
 僕はスプーンを口に運びながら料理の感想を言う。
「あ、わかります?」
 フェゴールの口元をごしごしやっていたベリトは、嬉しそうに笑う。
「今日は鳳凰の手羽先でスープをとったんですよ。お口に合いますか?」
「うん、とっても」
「光栄です」
 ベリトは、僕に誉められる時がいちばん嬉しそうだ。

 世界をこれからどうするのか。
 肉親や、或いは友人の問い掛けに、メシアは迷った。
 父親の言葉を聞いてさえも、迷いつづけていた。

「おかわりー!」
 フェゴールがお皿を持ち上げる。
 …食べたのとこぼしたのとで、皿はすっかり空っぽになっていた。
「はい、ちょっと待ってて下さいね。美味しかったですか?」
 鍋に向かいながらベリトが聞くと、
「すっごく!」
 フェゴールは力一杯答えた。よっぽど美味しかったのだろう。
「はい、どうぞ」
「ありがとー」
 受け取ると、またバクバクと食べ始める。そしてまたこぼす。
 その様子を見ながら苦笑し、僕はカップのお茶を一口飲んだ。

 メシアはハルマゲドンを選んだ。
 傍観者としての役目しか負っていない僕には、どうしようもできないことだった。
 メシア達の父親もその場に立ち会っていながら、何も言おうとはしなかった。
 自分の子供が選んだ道に従う。
 彼はそれだけだった。

「…そう言えば、兄さん」
 ふとベリトが顔を上げて僕を見る。
「今日は、どちらまで行かれていたのですか?」
 僕をその視線をゆっくりと受けとめた。そして、ゆっくりと瞬きをする。
「…地上だよ」
 さらりと答えた。するとベリトは、ああ、とでもいう風に頷いた。
「メシアにお会いになると、以前から仰っていましたものね。いかがでしたか?」
「うん、もうずいぶん大きくなっていたね」
 正直な感想を述べた。
「話はされたんですか?」
「ああ…」
 僕はそこで一息つく。
「魔界へと導いてきた」
 その言葉を言うと、ベリトも、話を聞いていたフェゴールも、僕の顔を真正面に見つめた。
「それは…」
「世界の終わりが、近いってこと?」
 交互に訪ねられ、僕は静かに頷いた。
「あとは彼ら次第だよ。ラグナロクとハルマゲドン、どちらが選ばれることやら…」

 今まで何度、ハルマゲドンが選ばれてきたことやら……。

「ラグナロクが、選ばれるといいですね」
「兄貴、頑張ってるし」
「ははは、それは彼らの決めることだよ」
 明るく笑って見せる。

 もう何度同じ食卓を囲んだか。
 もう何度同じ会話を交わしたか。
 もう何度同じ笑い声を上げたか。

 何度同じ結末を見たか。

「僕らの計り知れる所に、決断なんて在りはしないのさ」
「全てはメシアの手の中に、ですか?」
「理不尽だなー。兄貴に任せた方がいいって」
「ま、あとは見守るだけだよ」
 僕は肩をすくめた。

 お前たちは、何も知らない。知らなくていい。
 すでにこの世界は滅んでいること。
 そしてまた同じ場所を繰り返していること。
 暗い暗い、黄昏のアーチをくぐった僕たちだけの場所で。
 僕だけが知っていればいいこと。

 神々の黄昏は、まだやってこない……。


−END−