9 切ない愛を受け取って(シクラメン)





 ダークパレスの地下深くに、こつりと足音が響く。その音でルシファーは目を覚ました。いつの間に眠っていたのか。思考にふけっているうちに意識を飛ばしてしまったらしい。
 足音のしたほうを見ると、がちゃりという重たい音がルシファーの両腕から上がる。彼の両手足は頑丈な鎖に囚われ、太い柱に縛り付けられていた。ルシファーに造反したアゼルによって彼は幽閉されている。とらえられてからどれほどの日が経ったのか、彼にはもうわからないくらい、長い間こうして縛られている。
 縛られている間に彼が考えていたことは一つ、世界を救うメシアと、それを身ごもった母親たちのことだった。

溌剌とした美しさを持ち何事をもまっすぐにとらえる彼女を、ルシファーは同志として心から慕っていた。彼女の強さに世界の未来を託したいと思った。
悪魔の死体を慈しむように抱きしめていた彼女にはどうしようもなく惹き付けられた。魔王の彼が思うのもおかしな話だが、悪魔に操られたようだった。その彼女が、二人目の子供を身ごもったとゼブルから聞いたとき、ルシファーは項垂れるしかできなかった。ミカエルが彼らの計画に気付いたと知った時、予想していた最悪の事態だった。
「僕たちの脅威だよ」とゼブルは苦々しく言っていた。二代の兄弟が争うことになった。まだ抱き上げたことのない息子と娘が、そのことでひどく傷つくのだろうと思うと、ルシファーの胸は人間の父親のように締め付けられた。
ルシファーはここに張り付けられた自分が情けなく、許せなかった。幼い救世主を抱いていつか来る世界の終焉へ向き合う女性たちのそばにいることができない、離れてさえ愛しいと思う我が子を抱きしめてやれない、と悔恨を募らせていた。

 響いた足音がルシファーに近づく。
 暗い廊下の奥からルシファーの張り付けられた柱のある大広間へ、小さな人影が足を踏み入れた。
「やあ、ひさしぶり」
 気軽に片手をあげて、広間に入ってきたのはゼブルだった。ルシファーが軽い挨拶の言葉を返す前に、ゼブルは険しい表情で口を開いた。
「ルシファー、悪い報せだよ」
 ルシファーの表情もゼブルに合わせて強張る。
「天使の子供が生まれた。…刹那の弟だよ」
 それを聞いた瞬間、ルシファーの肩から力が抜けた。恐れていた事態が動き出した。天使の子供が善悪というものを知り始めたころに、天使はその子供に天使の正義を教えるだろう。そうなれば戦いが始まる。これから、世界の転換期の歯車は勢いよく回り始めるのだ。
「…ゼブル、教えてくれ。…要さんと娘は元気か? 甲斐さんと子供は無事か?」
「ああ。…二人とも、もう長くないようだけどね」
「…そうか」
 ルシファーは唇を噛み締めた。なぜ私たちは私たちが戦うことでこの戦いに幕を引けないのだろう。私とミカエルが戦ってどちらかが消え失せたら、人生を狂わされる女性も、親の代理で戦わされる罪なき子供もいなかったはずなのに。
「泣いている場合じゃないよルシファー、時は近い。君は子供たちに、世界を救えと命ずるんだ」
 知らぬ間にルシファーの目から涙があふれていた。彼が子供たちに導きの言葉をかけるころ、彼が愛した彼女たちはもうこの世にはいないのだ。そして、再会の機会は、彼が死なぬ限りもう二度とない。
 世界のためと言いながら、二人をどうしようもなく愛している事実に向き合い、何もできないもどかしさにルシファーは我が身を呪った。