8 残り香(ツルバキア)





「おめでとうございます」
 医師は心からの笑顔でそう言った。私も同じような笑顔で嬉しいわ、とだけ答えた。何年も前から、このやりとりを練習していた。きっと、とても自然にできていただろう。
 夫に妊娠を告げると、刹那ができたときと同じように手放しで喜び、たくさんキスをしてくれた。優しく私のお腹を撫で、刹那を呼んで、「お前はもうすぐお兄ちゃんになるんだぞ」とはしゃいでいた。どちらが子どもかわからない。けれどその光景はとても幸せで、私の心は温かくなった。刹那もお腹の子も、この人の子どもだったらいいのに、とふと思った。

 その優しかった夫がいなくなった。お腹の子供の父親の天使は彼をただの人形だと言っていたが、人形に家族や友達や同僚が必要だろうか。
 職場から帰らなくなって三日目の朝、行方不明者として捜索が行われた。彼の知人だという人間がたくさん家にやってきた。みんな、幼子を抱えた身重の私をいたわってくれた。義両親と義姉妹は私を心配し、私が出産をするときや働きに出るときは、子どもたちを預かってくれると言う。こんなに温かい人間関係を築いていた彼は、本当に人形だったのか?彼がいなくなっても私は不自由のない暮らしが出来そうだった。それが仕組まれすぎているように感じてとても恐い。まるで、わざわざ夫がいなくても生活できる妻という居場所を用意されて、ずるずると引きずられてきたようだ。そして私が上手くそこへ納まったから、夫はもう要らない。
 あの緑色の悪魔がしきりに言っていた「運命」という言葉が全身に重くのしかかってくる。
 私の運命のために、彼は世界からはじき出されたのだ…。
 彼が家に残していったものを片付けると、小さな思い出がよみがえる。涙は出てこない。恋愛感情はなかったが、結婚してもいいと思えるくらい誠実で優しい人だった。結婚の前から彼を裏切ってしまっていたことが改めて悔やまれた。
「おかあさん」
 いつのまにかやってきた刹那が抱っこをせがむ。この子は夫への裏切りの証。けれど、どうしようもなく愛しい。大切に抱き上げて頬にキスをする。
「おとうさん、はやくかえってくるといいね」
「そうね。あなたのお父さんは、必ず帰ってくるよ。もしかしたら、刹那が探したらすぐに見つかるかもしれないね」
「ほんとうに? じゃあ、さがす!」
「大きくなったらね」
「おかあさんもいっしょにさがそう」
「…うん」
 刹那は嬉しそうに私の小指を捕まえて、指きりげんまんをしている。私はこの子との約束を守れない。そこまで命は続かない。どこまで私は裏切っていくのだろう。
 眼の端から涙がこぼれる。刹那が驚いて、怯えた顔をする。私はあわてて笑顔を作り、
「なんだか目にごみが入っちゃった。ちょっと洗ってくるね」
 刹那を下ろして洗面所へ駆け込んだ。顔を勢い良く洗って、気持ちを落ち着ける。泣いていてはいけない。刹那を不安にさせてはいけない。この世界で生きることはとても楽しくて幸せなことなんだと示さなければ、救世主の役目なんてとても務まらない。
「刹那、ごめんね。もう大丈夫。さあ、抱っこだよ」
 両手を広げると、刹那は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、すぐに笑顔になって、私の腕に飛び込んできた。
「おかあさん、ぼく、ぜったいおとうさんみつけるよ」
「うん」
「おとうととおとうさんにだっこしてもらうの」
「うん」
「そうしたらね、つぎはおかあさんにだっこしてもらうんだ」
「うん、いっぱいだっこしてあげるね」
「じゃあまたゆびきりだね」
 刹那はまた私と小指を絡めて、舌足らずに時々音を外しながら指きりげんまんを歌う。無邪気な笑顔が眩しい。私はあとどれくらいこの子の笑顔を見ていられるのだろう。きっと刹那との約束の半分も果たせないに違いない。
 約束が守れない分、いっぱいこの子を愛そうと胸で誓う。素敵なものを見せよう。兄弟の素晴らしさを教えよう。この世界には大切なものがあふれているから、守る価値があるんだと伝えよう。
 刹那を胸いっぱいに抱きしめた。
「大好きだよ、刹那」
「ぼくもだよ!」
 あなたの笑顔が、いつまでも続きますように。