6 美しさを超えた価値(スイートアリッサム)





 こつり、とダークパレスの長い廊下に足音が響く。歩みを進めるたびにこつりこつりと反響し、やがて壁中を足音が飛び回っているような小さな合唱になる。ゼブルはその音の中に包まれるのが嫌いではなかった。かかとを強く下ろしてみたり、つま先でそっと石の廊下を撫でるように歩いて、音の違いを楽しんだ。
「…あまり遊ぶな。煩くて気が散る」
 廊下の中で一番大きな扉が開き、眉を寄せたルシファーが顔を出す。ゼブルはその姿を見止めると、わざとらしく足音を高くして駆け寄った。
「きみの秘書に謁見を断られたんだ。会えてよかったよ」
「断られたのならなぜすぐに帰らない」
「うまくいけばきみがひょっこり出てこないかなと思って待っていたんだ」
 ゼブルはにこりと笑みを浮かべた。彼の悪戯でひょっこり出てこざるを得なかったルシファーは深くため息をつく。
「…入れ。…何の用だ」
 部屋に入るなり、ルシファーは表情を険しくしてゼブルに向き合った。ゼブルも自然と笑顔を消し、表情の読めない顔になる。ゼブルはしばらく考える。おっとりした気質のルシファーがこんな顔をするなんて。気付いているのだろうか、世界の転換する日が近いのだと。
「…二つ、きみに言いたいことがあるんだ」
「言え」
 静かに命令する声は魔王のものだ。友人の張り詰めるような威厳ある声を聞き、ゼブルはつと顎を上げる。
「まず、メシアの母親たちのことだ。彼女たちの力について忠告したい」
 それを聞くと、ルシファーは話の続きをさえぎるようにゼブルの前へ手を伸ばした。
「わかった。…こちらへ」
 そして執務室の奥にある書斎へと進んだ。書斎の隅にある応接用のソファをルシファーは示し、ゼブルはそこへ腰掛けた。ルシファーは座らずに本棚に背を預ける。
「…続きを」
「彼女たちに会ってきた。カナメさんは魔界や天界の住人を見ることができる。素晴らしい力だ。…ただ、強すぎる」
「どのようにだ」
「彼女は神を見ることができるそうだよ」
 ルシファーの眉がピクリと動いた。
「…本当か」
「星神様ほどの神を見られるかはわからないけどね。土着信仰で祭られている神を見ることはできるみたいだ」
「…そうか。ならば、戦いが始まるころの異変を敏感に感じてしまう、か」
「それだけならいいけど、神々がこの戦いにおいてどちらにつくか話しているのを聞いちゃったりすると恐いんだよね」
「…彼女は…天界派を見かけたら自分で切り倒してしまいそうだ…」
「そうそう。ただの人間だから大丈夫だとは思いたいけど、神の言葉を自分の子どもに教えて、戦況を良いように変えられても困る」
「世が世なら神託を受ける巫女か。…邪神に嘘を吹き込まれて錯乱させても気の毒だ」
 ルシファーは腕を組んでしばし黙った。そしてすぐに一つうなずく。
「よし、彼女には私から連絡して、来るべき日まで神の住む土地へ踏み入れぬように地上の神の分布図を渡して避けてもらおう」
「やめなよ」
 ゼブルはルシファーの言葉を聞くなり切り捨てた。
「彼女、もうきみとは関わりたくないって言ってたよ」
 それを聞くと、ルシファーは目を見開いた。そしてたちまち消沈した顔になる。
「…なぜだ…」
「なかなか会えないのに浮気されてたら普通の女性なら正常な反応だと思うよ。連絡と地図は僕が手配するからきみは仕事頑張ってね」
 投げつけるように言って、ゼブルは足を組んだ。
「それから、カイさんのことだけど」
「…なんだ。彼女とは3ヶ月前に別れたぞ」
 今度はゼブルが目を丸くする番だった。
「なんで。仲良かったのに」
「彼女が結婚したんだ。言ったろう、婚約の証の指輪をしていたと」
「…ああ、そうだったね。…相手の男について、君は何か知っているかい? きみの子どもの育ての親になるんだろう?」
 ゼブルにとってはこちらが本題だった。果たしてルシファーは彼女の結婚相手が天使だと知っているのだろうか。そして彼女がいずれは彼の敵対勢力の総大将の子を生むのだということを。
「ああ、知っている」
 ルシファーは変わらずに消沈した声で言う。
「普通の人間の男だ。風采は上がらないが、人の良さそうな顔をしていた。金持ちだというから、彼女が生活に困ることはないだろう。…彼女も、彼を好ましく思っているようだった。私の入る余地はない」
「…え?」
 ゼブルは怪訝な顔をした。普通の人間のはずはない。その男は大天使ミカエルのはずだ。カイはルシファーに嘘を教えたのか。それとも、ゼブルに嘘をついたのか。
「…何を驚いている。まさか婚約中の女性がわけのわからない異界の男と本気になるとでも思ったか?」
 それに驚いているのではないと叫びたい気持ちをおさえ、ゼブルは目を閉じる。
 彼女について自分とベリトが評価した「天使のような」美しさ。
 彼女自身の口から聞いた「仮面をつけたつまらない男」という婚約者。
 ミカエルではないのか。正義を振りかざすあの傲慢な天使が彼女と契約したのではないのか。ルシファーが見た婚約者の印象は、あまりにもミカエルとはかけ離れている。
「…いや、婚約者を好きなのにきみと契約できる彼女がすごいと思っただけだよ」
 考えがまとまらないうちに話すには、内容が大事過ぎた。ゼブルはそれが確定するまで胸の中にしまっておくことを密かに決めた。ルシファーは不思議そうな顔をしていたが、一つため息をついて表情を改めた。
「…そうか。それで、カイさんについての忠告とは何だ?」
「婚約者がいるなら振られる覚悟をしておけって言いたかっただけだよ。…それで、もう一つの言いたいことだけど」
「何だ」
 ゼブルは声を低くして答えた。
「クーデターを起こそうとしている一派がいるよ。気をつけて」
 とたんに、ルシファーの目に鋭い光が宿る。
「わかった。感謝する」

 書斎でラグナロクについて簡単な打ち合わせをした後、ゼブルはルシファーの執務室を去った。世界の行方、ルシファーを引き摺り下ろそうとする動き、憂慮する材料はいくらでもある。これが世界の変わり目だ。ゼブルは今までに幾度となく経験した変わり目の空気を思い出す。だが、今回以上に得体の知れない不気味な空気は思い出せなかった。
「…婚約者…か」
 ミカエルがカイと通じていないのであれば、天界の動きを別の角度から読まなければならない。ルシファーは国内の危機に備えなければならないから、国外の動向に目を光らせる役目はゼブルが引き受けていた。まずはカイの婚約者についてはっきりさせ、もしもミカエルが関係していたのであれば一刻も早くルシファーに進言しなければ、とゼブルは強く思う。
 しかし、ゼブルがルシファーに再び会うことはできなくなった。
 ルシファーが捕らえられた。