5 あなたと踊ろう(シザンサス) 信じることのできる人が欲しかった。 寄りかかることのできる背中を持った人が欲しかった。 子どものころ、授業参観が死ぬほど嫌いだった。どうせだれも来てくれない。両親ともいたけれど、私は嫌われていた。親戚もみんな私のことを毛嫌いして、優しくしてくれる大人は学校の先生だけだった。でも、私は両親にも親戚にも愛されたくてしょうがなかった。優しくされなくてもいいから、声をかけてくれればよかった。おはよう、いってきます、ただいま、おやすみなさい、と私が言ったら返事をして欲しかった。ただそれだけが望みだった。 「カナメちゃんのお母さんってどんな人?」 クラスメートの何気ない質問がいつも心に突き刺さった。誰も私の家に来たことがない。誰も私のお母さんを見たことがない。 「優しい人だよ。仕事がいそがしくって大変なの」 本当のお母さんのことなんて言えなかった。私のことをいないように扱うの。あいさつしても返してくれたことがないの。笑いかけてもらった気がしないの。私を愛していないの。 先生だけは気付いていた。面談のとき、家庭訪問のとき、お母さんは私の手も引かず私と目もあわせず「家庭では問題ありません」と言ったきり、先生が「カナメさんは学校でも頑張り屋さんで人気者ですよ」とほめてくれても嬉しそうな顔一つしない。無関心、無表情を崩さない。しまいにはどうでもよさそうにため息をつく。面談時間が終わるとお母さんだけさっさと帰って私は置いてけぼり。代わりに私が「先生、ありがとうございました」と頭を下げた。一人でとぼとぼと帰る道で手を繋いだ親子連れを見ると、たまらなく子どもが憎たらしいと思った。 高校に入って、家を出た。学校は奨学金のあるところを選んで、必死に勉強した。アルバイトもいくつもやった。眠る時間が削られて、成績が落ちたら奨学金がなくなるというプレッシャーもあって、ずいぶん疲れた。けれど、家族や親戚と離れて暮らすことで、ほっとしていた。家に帰っても誰もいないから、無視する人もいない。無人の中での孤独は苦ではないことを知った。 そして、一人で考える時間が増えた。どうしてお父さんやお母さんたちは私を嫌っていたのだろう。 子どものころは、私ができの悪い子どもで、お父さんやお母さんの思うようないい子じゃないから罰せられていたのだと思っていた。けれど、高校生で一人暮らしをして、成績もトップで生活費も自分で稼ぐという暮らしをしていると、回りの大人や友達は、えらいえらいとしきりにほめてくれた。両親に愛されない駄目な子供という私の劣等感が、少しずつ薄れていった。そう、子どものころから私は先生たちからほめられるような努力家で成績も良く、友達もたくさんいた。なのに両親は評価してくれたことがなかった。あれは不当だったのではないか。では不当な評価の理由とは何か。 一つだけ、私の思いついた可能性があった。 とてもとても小さいころ、母に尋ねてみたことがある。 「おかあさん、おだいどころの小さい子はだれ?」 私の目には、黄色い肌の小さな子どもが小麦粉の粉で遊んでいるのが見えていた。けれど母は気味悪そうに私が見つめる台所のすみを見たあと、そんなものはいない、と言った。そして私は病院に連れて行かれ、目と脳の検査を受けた。そして、異常がないことがわかると、今度はお寺に連れて行かれた。そこのお坊さんにこれこれこういう人は見えるかと聞かれて、見えないと答えた。母はいよいよ私を異常な目で見るようになった。それから母は、私に話しかけられるだけでも嫌そうな目をするようになった。台所に何かが住んでいた家からはすぐに引っ越した。 今思えば、あれが原因なのだろう。私には幽霊を見るような霊感はない。でも、普通の人には見えない生き物が見える。悪魔か狐でも憑いていると思われたのだ。もしかしたら、実際そうなのかもしれない。引っ越した先の家にも黄色い子どもはいたし、私が今住んでいる部屋の台所にもいる。その子どもに話しかけたら、ブラウニーという妖精だと名乗った。台所が好きだというのでほったらかしている。たまに、近所の公園の噴水から笑い声が聞こえて見てみると、青い肌の女の子が楽しそうに泳いでいたりもする彼女とも話したら、ウンディーネという精霊だと教えてくれた。他の人には見えないようだった。 嫌われる原因がわかれば、他人と接するのは楽だった。見えるものを見えない振りをしていれば、人間関係はうまくいく。けれどそれは私が見ている世界に嘘をつくことであり、私の心に嘘をつくことだった。私は人気者になれたけれど、私は誰にも心を開くことはできなくなっていた。たった一つの秘密を抱え込んで嘘をつくだけで、周りはすべて他人に見えた。 もしも、私を心からほめて愛してくれる人が現れたら、そしてその人は何を聞かされても私を裏切らないと信じることができたら、洗いざらい話そうと誓った。 高校を卒業して働き始めて、一番初めの夫に出会った。隣国の人だった。その人は私をほめた。愛した。何でも受け入れると約束した。私が妙な生き物が見えることを打ち明けても、笑顔で「愛しているよ」と言ってくれた。日本語はあまり上手ではなかったけれど、心は通じていた。私も彼の国の言葉を覚えて、彼の国へ行った。何も恐くないと思っていた。 彼の国には、私の母国よりもはるかにたくさんの生き物がいた。私は夫とさまざまな宗教施設に足を運び、そこに住む番人や妖精と仲良くなった。 そして、ある場所でそこの神を見てしまった。土地の守り神ではなかった。災厄を運ぶ神だった。その恐ろしい姿に私は怯え、夫にすぐ立ち去ろうと訴えた。夫に何が見えるのかと聞かれ、見たままを説明すると、夫は顔色を変えた。そして彼は一人で逃げ出し、もう私の家へ帰ることはなかった。 小さい妖精や妖魔なら、見える人間は多い。でも、神をはっきりと捉えることができるのは、人外の力に等しい。災厄を運ぶとなれば身を隠すことにも長けた神だ。少し異界に詳しいものなら、私から逃げ出すのは当然。信仰によっては火あぶりにされていた。…そう教えてくれたのは小さな子どもだった。その子どもは、見た目は子どもで私以外の人間にも見えていたけれど、うっすらとまがまがしい力を持って見えた。 「…あなたは何者なの? ルシファーの使者と言ったわね」 私は静かにその子どもに問うた。ルシファーは私の二番目の夫…いや、婚姻届は出していないからただの恋人だ。そして、私のお腹にいる子どもの父親でもある。 「僕はゼブル。魔界の薄暗い穴に住んでいる悪魔だよ」 子どもはすべてを見透かすような目をしていた。ゼブルという名前は聞き覚えがある。西洋の高位悪魔だ。 「その悪魔が私に何の用?」 ゼブルはごく普通に私を訪問した。部屋のチャイムが鳴って、出てみたら子どもがいた。片手に小さな手土産を持って、ルシファーの名前を出した。中に上げるのはためらわれて、部屋の近くの喫茶店で向き合っている。 「用があるのはルシファーのほう。僕はただの代理。…ええと、地上での生活費と養育費と親権について手続きしろって言われてきたんだけど、僕はさっぱりわからないんだよね。カナメさんは何か聞いてる?」 それを聞いて、私の肩から力が抜けた。妙な力を持った高位悪魔が身重の女に何の用かと思ったら。 「…役所と銀行への身分証明書よ。私が受け取ればいいだけだから、預かってるならちょうだい」 「良かった、僕が役所とか行っても未成年で取り扱ってくれないだろうからどうしようかと思ってたんだよね」 ゼブルはとぼけた調子で何通かの封筒を手渡してきた。中の書類を検めてから私は受け取った。 「ありがとう。あの人も不親切ね、何が入ってて誰に渡せばいいのか言ってくれなかったの?」 「カナメさんにこれを渡せ、諸費用と親権について必要な書類だ、不明な点があったらお前が手続きしろ…だったかな。不親切じゃないけど僕が代理に何かできることじゃないよね」 「まったくだわ」 ルシファーののんきそうな顔が浮かんでくる。優秀な秘書がいるらしいから、伝達能力に欠けていても仕事になるのだろう。 「まあでも、すぐに済む用でよかったよ。妊婦さんに無理して外出させちゃってごめんね」 「気にしないで、順調だから」 ゼブルは笑顔になる。とても可愛らしい子どもの顔だ。そしてまだふくらみ始めたばかりの私のお腹を首を傾げて見てる。 「今、何ヶ月?」 「4ヶ月よ。やっとつわりが終わったの」 「大変だったね。…性別は?」 「聞いてないわ。楽しみにしようと思って」 「僕は女の子だと思うなー」 にこにこしているのを見ると、本当にこの子が悪魔なのかわからなくなってくる。運ばれてきたフルーツジュースをのんびりと飲んでいると、ふとゼブルは笑顔を消した。 「…そうだ、カナメさん。僕はルシファーの代理だけど、一つだけ、僕個人からあなたに伝えたいことがある」 「何?」 ストローから口を話して、私は背筋を正した。 「近々、ルシファーはいなくなる。死ぬわけじゃないけど、覚悟をしておいて。経済的援助のほうは、ちゃんと考えているみたいだから心配ない」 「…どういうことよ」 ルシファーは魔界の王だ。失脚するとでも言うのだろうか。 「どういうことかはわからない。ただ、僕はいろいろなことを見通す力を与えられて生まれたから、なんとなく先のことがわかる。ルシファーは死なないけれど、僕たちの前から姿を消す」 「…そう」 弱々しい声が出た。ルシファーはあまり私に会いに来ないけれど、来たときはとても優しくて大切にしてくれた。私には強い力があるから子どもを生んで欲しいと突然言われたときも、子どもができた後も、彼のことが好きだ。頼りになる人ではないけれど、彼の望みを叶えてあげたいと思った。 「…ねえゼブル。ルシファー、浮気してるでしょう」 「え」 突然言われて、ゼブルの表情が固まった。やっぱり、と思った。不思議と怒りは浮かばなかった。他に誰を好きになっても、私へかける優しさが減ったと思ったことがなかったから。 「…私もね、なんとなくわかるのよ。隠し事をしてるって」 自分と同類の匂いがするから。そして男の人の隠し事を見抜くのはとても簡単だ。 「ルシファーに言ってやって。もう二度と来なくていいって。私の子どもは私が育てるわ」 「…うん。ごめん」 「あなたがルシファーの浮気相手じゃないなら私に謝らなくていいのよ。どうせ籍も入れていないんだし」 目の前が霞んできた。どうせみんな信じられない。頼りになんかできない。 だから私は子どもにとって、一番信じて頼れるお母さんになろう。挨拶して手も繋いで、心が温かくなる愛と優しさを注ごう。 「…カナメさん、その、手続きとかは良くわからないけど、困ったことがあったら僕でよければ力になるよ。子育てなら、何百年かやったことがあるから」 それを聞いて、思わず笑ってしまった。そして同時に涙が出た。 「よろしくお願いするわ」 |