4 私のために祈ってください(バーベナ) 「ベリト、馬を出してくれるかな?」 ベリトが部屋で愛馬の鞍を磨いている時、ゼブルがやってきた。 「珍しいですね。兄上が乗られるなんて」 少し驚いた風にベリトは首をかしげる。兄のゼブルは透き通った羽を持つ悪魔だ。馬に乗るくらいなら空を飛んだほうがずっと早い。 「僕じゃないんだ。ちょっと送りたい人がいてね。良ければ、君が手綱をとってくれるとありがたいんだけど」 「なるほど。喜んでお引き受けします」 近頃、ゼブルはルシファーと計画しているシステムのために、頻繁に使者のやり取りをしている。きっとその中の一人だとベリトは当たりをつけた。だが、ゼブルの次の言葉を聞いて目を丸くした。 「ありがとう。じゃあ、応接間にいる女性を地上まで送ってあげてね。馬に乗ってみたいって楽しみにしてるから」 ベリトは手綱を操りながら、憮然としていた。道は悪くない。褐色の固い大地は彼も彼の馬も乗りなれた道だった。道沿いに生えた木も、ざわざわと不吉な枝を伸ばしているが、駆けているのがベリトであることに気付くと、たちまち道を譲る。 彼の前で馬に跨っている女性は馬に乗り慣れた風ではなかったが、しっかりとたてがみにつかまり、邪魔にはならなかった。彼を不機嫌にさせていたのは、彼女の容姿だった。 「無理を聞いてくれてありがとう! お馬さんってとっても速いのね!」 飛ぶように過ぎていく景色を見ながら無邪気にはしゃぐ姿は、醜いわけではない。美しい。それも並々ならぬ美しさだ。きっと世界中の男たちは種族も年齢も問わずに振り返ってしまうだろう。その美しさを一目見た瞬間にベリトの頭に浮かんだ言葉は、「天使に愛された美貌」だった。悪魔にとっての宿敵を思わせる楚々とした美しさは、彼にとって好ましいものではなかった。それに加え、悪魔の彼に一瞬にして「天使」と思わせる美しい女性といえば、思い当たるのは一人しかいない。 「魔界に人間の方が見えるのは珍しいですね。観光ですか?」 人を送る役目を仰せつかって、容姿が気に入らないという理由で黙りこくっているわけにもいかず、ベリトは女性に声をかけた。女性は小さく頷いた。 「いいえ。ルシファーに会いに来たの」 「…あなたは魔王様の使者…でしょうか」 むしろ彼女の立場は側室であったが、それを面と向かって聞くのは憚られた。しかし、彼女は鈴を転がすようなきれいな声で笑って、 「いいえ、愛人よ」 ベリトの気遣いを取り払うかのように明るく言った。ベリトは驚かされながらも、落ち着いた声で返す。 「そうでしたか。…以前、兄からうかがいました」 「魔王をたぶらかす悪魔みたいな女だって?」 悪戯そうに彼女はベリトを振り返る。 「いいえ。とても美しい方だと」 「そう、ありがとう。…あなたは、あの緑色の子の家族かしら?」 彼女はベリトの瞳を覗き込むように尋ねる。澄んだ茶色の瞳に見つめられると、吸い込まれそうだった。 ベリトは彼女と目を合わせず、馬を操るためにじっと前を向きながら答える。 「はい。紹介が遅れました、ベリトと申します。あなたをご案内しましたゼブルの弟です」 「あの子はゼブルというのね。あなたがお兄さんなのかと思ったわ。魔界の人たちは見た目と年齢がばらばらなのね」 「ええ」 魔界のものは技術さえあれば他の生き物に姿を変えることができる。ベリトは騎士であるから馬上で剣を振るいやすい姿をつくった。しかしそこまでの説明を女性にはせず、ベルトは馬に鞭をくれた。 「私はカイというの。まだ名乗っていなくて失礼したわ」 「…カイさん」 女性が名乗った名前をベリトは繰り返した。あまり聞いたことのない発音の名前だった。 「ええ。日本の古い地域と同じ名前。きっと私の先祖はそこで生まれたのね」 「…あなたは日本の人間ですか?」 「そうよ。日本語で話しているじゃない」 カイはくすくすとおかしそうに笑う。しかしベリトは視線を前から外し、しげしげと彼女の姿を眺めた。美しい顔ではなく、彼女の長い髪を。 混じりけのない銀色。 彼の知っている「日本の人間」は、ルシファーのような漆黒の髪を持つ民族だ。身を飾り立てるために染髪することはあっても、茶か金の髪しか見たことがない。 笑っていたカイはベリトの不思議そうな顔を見て、少し申し訳なさそうに言った。 「からかってごめんなさい。何度か魔界に遊びに来ているうちに、色が抜けてしまったのよ」 「…それは…」 ベリトは返事に窮した。人間の体が魔界に耐え切れず悲鳴を上げているのではないか。もしくは、天使に愛されながら魔界へ踏み入る彼女にかけられた呪いか。どちらにせよ、彼女は蝕まれている。 「…そんな顔をしないで。悪魔というのは情け容赦ない残酷な生き物かと思っていたけど、全然そうじゃないのね。人間よりも優しいわ」 彼女は静かに笑った。 「私は天使の祝福を受けた子供を生むわ。…でもね、その前に、あなたたちの味方になる子どもを生むの」 そして、彼女は自らの手をそっと腹に置く。 「もう二度と、魔界にくることはないわ。髪の色は惜しくないけれど、この子に悪い影響があったらいやだから」 「…そうですか」 ベリトは女の奔放さに、ふと好感を持った。 「あなたは天使のようにきれいなのに、私たちと同属のように思います。魔王様をとりこにする悪魔のようです」 「ありがとう。ゼブルよりあなたに言われるとは思わなかったわ。やっぱり兄弟なのね」 「いいえ、私にはもう一つあなたを褒めることがあります」 「なあに?」 「天使長さえとりこにするとは、悪魔には成せません。恐ろしい人ですよ」 「褒められている気がしないわ!」 カイは明るく笑い声を立てる。 「でも、悪い気はしないわね。敵対勢力の長を手玉に取るなんて、私が調停したらこの戦いは血を見なくてすむかもしれないし」 「する価値はあるかもしれませんよ。十中八九、あなたが八つ裂きにされて失敗するでしょうが」 「そうね」 カイは肩をすくめる。人間の女ごときが間に立ってとりなして終わる戦いであったら、とっくに三世界は融和して素晴らしい世界が広がっていることだろう。「正義」に関する価値観の違いほど恐ろしいものはないとベリトは思う。 「ベリト、あなたは死者の魂を裁く悪魔か神を知っている?」 カイが真剣な瞳でベリトに問いかける。 「国も宗教も問わないのでしたら、たくさん存じていますよ」 「じゃあ、お願いがあるの。私が八つ裂きにされたりしたら、叶えてほしいの」 手綱を操り、ベリトは馬を止めた。砂埃がおさまるのを待って、カイに向き合う。 「…なんですか?」 「…私たち親子は、きっと幸せになれないわ。だからお願い、私が死んだら地獄へ落ちるようにして。その代わりに私の子どもたちが少しでも幸せに生きられるように。…それから、もしも、万が一…」 カイの両手は震えていた。 「万が一、私の子供がこの戦いで死ぬようなことがあっても…決して苦しみを与えないでちょうだい。私は、どんなにつらい地獄に落とされてもいいから」 ベリトは不思議な気持ちでカイを見ていた。恐ろしいほど奔放なのに、まだ見ぬ我が子の安楽のためなら死後の安らぎさえいらないという。男には悪魔のように、子供には天使のように遊び、愛する姿は、完璧なまでに人間だった。 「…わかりました、地獄の番犬に言っておきましょう。一番激しい炎にあなたを落としてくれるでしょう」 まだ若く気性の荒い、けれど情には厚い番犬の姿を思い出しながらベリトは答える。あの犬ならばいいようにするだろう。 「どうもありがとう。約束よ」 「…魔王様や兄には頼まなかったのですか?」 再び馬を走らせながら、ベリトは疑問を口にした。死を司る神の知り合いは、ベリトよりもルシファーやゼブルのほうがはるかに多いはずだった。カイは小さく首をかしげる。 「あの人たちは魔界勢力の中心よ。戦いが負けたら処刑されて、私の願いを叶えられないかもしれないじゃない」 さも当然、という風に言われたので、ベリトは一瞬呆気に取られ手綱を持つ手が緩み、馬が暴れる。それをなんとか落ち着けながら、ベリトは空恐ろしい思いでカイを見た。 「…もしかして、そのために私の馬に乗りたいと?」 「他に何があるかしら? そうね、お願いができただけじゃなくて、聡明で美しい男性と会話が楽しめてとっても幸運だったわ、結果的に」 「はは…」 地上への転送装置のある広場が見えてきた。ベリトは早くこの女を下ろしたい一心で、馬に厳しい鞭をくれた。 |