3 偽りの魅力(ダチュラ)





「兄上、私は悪趣味だと思いますよ」
 午後のお茶を飲みながら、ベリトは兄を咎めた。咎められたゼブルのほうは気にした様子もなく、小さく笑って淹れたての紅茶を口に運んだ。
「地上の食べ物は美味しいからね。開店時刻にちょろっと行ってみたらたまたま親友がいて、たまたま会話が聞こえただけだよ」
「そこまでなら兄上にはいつものことですけどね」
 やれやれとベリトは首を振る。兄のゼブルがふらりと出かけてルシファーにちょっかいを出すのはよくあることだったが、今回ゼブルは地上の人間とも接触したらしい。
「ルシファー様の気が多いのは今に始まったわけではないでしょう。なぜ兄上がその女性に声をかけるんですか」
 魔界の深淵に住むものとして、地上への干渉は控えよとベリトに教えたのは兄だった。魔王に匹敵する力を与えられたものたちが魔の力に頼らず生きている世界へ関わることは世界そのもののバランスを乱すことになる。勘のいい人間だったら、彼らが地上に降り立っただけでも場の空気が変わったことに気付いてしまう。
 ベリトの心配に追い討ちをかけるようにゼブルはにやりと笑って、
「だって、他人のものはよく見えるでしょ?」
 と言う。ベリトは目を見開いた。
「まさか、兄上!」
 ベリトの脳裏にルシファーの愛人を興味本位で誘惑する兄の姿が浮かんだ。まさか、という思いと、この兄ならそれくらいやりかねないという思いが同時に沸き起こる。食欲のためなら弟の食べ物を一品失敬することに何の罪悪感もない兄ではないか。ゼブルはそんなベリトの頭の中を見越したようにカップを置いて再び笑った。
「まさか、そんなことはしないよ。ただね、ベリト。これから僕が言うことを聞いて、思ったことを率直に言ってくれるかな?」
「…なんでしょう」
「まず、ルシファーから聞いた彼女のこと。『美しい』『異界のものを異界のものと見抜く』『怪物の死体を膝に乗せることができる』『薬指にきれいな指輪』…ここまでで思うことは?」
 真っ先に、珍妙な女性だ、とベリトは思った。しかしそれだけを言うことは憚られて、しばらく思案し、ゆっくりと口を開いた。
「…薬指に指輪をしている女性なら、既婚者か婚約者がいるのでしょう。美しい方なら当然と思います。けれど、異界のものを見抜いて、怪物に抵抗がないというのは、地上の人間としてはいささか異質ですね」
 それを聞くと、ゼブルはうなずいた。
「そう、僕も同じ意見。…じゃあ、次は僕が彼女を見た印象を聞いたらどう? 彼女は『天使のように』清らかで美しい女性だったよ」
 ベリトがぴくりと眉を上げた。
「…彼女は、人間ですか?」
「うん。それで、どう思う?」
 ベリトの表情が険しくなる。
「…人間であれ、天使の関係者かと」
「そうだね。他には?」
「…ルシファー様は…きっと気付いてはおられないでしょうね…」
 それを聞くと、ゼブルは声を出して笑った。
「それは思わなかったな。でも、言われればそうだね、彼はなんにも不思議には思っていないみたいだった」
 ひとしきり笑った後、ゼブルは笑顔を消した。
「天使の関係者と言ったね。どんな関係者だと思う?」
 ベリトは首をかしげた。
「そこまでは…」
「わからない? きみは一番初めに彼女についてなんて言った?」
「…既婚者か…婚約者のいる女性…だと」
「その相手は誰だと思う?」
 ベリトは息を呑む。
「なぜ、天使が人間と」
「ルシファーと同じことをしようとしているのかもね」
 ゼブルはすっかり冷え切った紅茶を一口すすった。ベリトはカップを口に運べないまま、じっと兄を見つめ、兄の言葉を反芻した。ルシファーと同じことを天使がしようとしている。ルシファーはもっとも魔力のある人間の女性との間に、世界を救う救世主を作ろうとしている。
 血を混ぜるのは、未来の数を増やすため。悪魔の正義だけではなく、人間の正義を併せ持った瞳で世界を見つめることで、より良い方向をより多く見出すため。何よりも、地上で生きることのできる体でありながら、悪魔の頂点に君臨できる血をもつ救世主は、地上と魔界を統べる力を持つ。救世主が二つの世界を統べる力を持ったとき、もう一つの世界である天界を滅ぼすことも可能だ。
 ルシファーと同じことを天使がやろうとしているなら、その結果は生き残る世界が真逆になるだけでまったく変わらないだろう。
「…双子の思考は似るそうですね」
 恐ろしい、とベリトは思った。自分たちが殺されることも、悪魔も天使も考えることはまったく同じなのだということも、運命を握っているのはまだ誕生すらしていない子供たちに委ねられているのだということも。
 魔界最強と詠われる深淵のものたちが世界の運命の決定に何一つ力を持たないことも。
「そういえば、彼女に聞いてみたんだよ。婚約者について」
 急に兄が口を開くので、ベリトは一瞬言葉の意味を図りかねた。そしてこの話の始まりが、兄が女性と会話したことをベリト自身が咎めたことにあったことに思い当たる。
 なぜ今更そんなことを、と言いかけて、その質問の内容がまさに核心であることにベリトは気付いた。
「彼女は、何と?」 
「うん、『ミカエルよ。仮面のつまらない男の人』だってさ。なかなか辛口だね、あの娘」
 それを聞いて、ベリトは全身の力が抜けるように感じた。
「最初から仰ってくだされば私は不毛な会話をせずに済みましたのに」
 ゼブルは悪戯そうに笑う。
「謎かけは好きだからね。それに、僕もきみと同じように考えたから彼女に話しかけようと思ったんだよ。どうやら、双子に限らず兄弟の思考は似るらしいね」
「…思考の類似性を探るための質問だったんですか?」
「いや、結論の類似性だよ」
 ベリトは深くため息をついた。
「兄上、悪趣味ですよ」