2 ただ一度だけ会いたくて(ゲッカビジン)





 彼女の声が耳についてはなれない。

「また、お会いしたいと思っていたのに」

 手につかない仕事を無理矢理切り上げ、気付けば転移装置に乗っていた。
 世界を渡る歪んだ空間の中で、彼女に会いたいと焦がれる自分と、会ってどうなるのかと冷静に諭す自分がせめいだ。あの声に誘われるままに会えたら、きっと自分の心は満たされるだろう。しかし、自分が満たすべきは民の心であり、優先すべきは執政であった。それがなぜ、地上の女一人のためにこうしているのか。
 地上へついても答えは出ず、ゆっくりと町を歩いた。
 風に乗って、彼女の香りを感じることができた。ゲートがあるのと同じ町に暮らしているらしい。その方向を目指していくと、彼女と出会った公園があった。今日はまだ朝に近いせいか、遊ぶ子どもの数は少ない。公園を通り抜けると程なくしてたくさんの店が立ち並ぶ道へ出た。彼女の香りは強くなったが、様々な人間や食べ物や動物の匂いにまぎれてしまう。その間を縫うようにして進むと、花ばかりを並べた小さな店があった。そこで、香りが強くなる。
「…カイさん!」
 店の前に覚えのある黒髪を見つけた。彼女は振り向き、自分を見止めるとにっこりと笑った。
「一週間ぶりね、ルシファーさん」
 店の前まで行くと、彼女が花を束ねる作業の途中だということに気がついた。
「申し訳ありません、ご都合も聞かず…」
 慌てて立ち去ろうとすると、彼女はくすくすと笑った。
「私の都合を聞く方法があったの?」
「…いえ…」
「だったらそうやって謝る必要はないわ。『突然押しかけて申し訳ありません』…ね」
「突然押しかけて…」
「いいのよ。もう、これで終わるから」
 余分な葉を取り、細長い容器に水を入れ、そこに大輪の花束を挿し込む。
 流れるような動作を見ながら、諭す自分が消えていることに気付く。そして、彼女の口調がいくぶんくだけていることにも。
 花の形を整えると、彼女は手早く落ちた葉や花びらを集めた。捨てに行くようなので手伝い、店の前に戻ると、もう開店の時間らしく、早速一人の夫人が紫色の花を物色しているところだった。
「いらっしゃいませ! …ルシファーさん、やっぱり突然押しかけたこと、謝ってもらわなきゃいけなかったみたい」
 彼女は小さく肩をすくめる。謝罪をしようと口を開くより先に、彼女の言葉が続いた。
「日が落ちる頃、また来てくれるかしら。そうしたら仕事が終わるから、夕食でもご一緒しましょう?」
「…わかりました」
 一つうなずく。彼女は短く「それじゃあ」と言い、長い髪をさらりと揺らして店の奥へ消えた。少しの間、彼女が整えていた花を見ていたが、あまり長居もしておられず、道の先へと歩を進めた。
 いろいろな匂いが混ざった道だった。
 甘い菓子を焼いている匂い、おろし立ての服が放つ独特の匂い、髪を整えるための油の匂い、実に様々だった。あちこちを見回しつつ、また料理をする場所特有の美味しそうな匂いを感じると、
「や」
 その匂いの元の店から、少年が一人、出てきた。全身を髪と同じ緑色で固めた、赤い目の少年だ。見覚えが、ある。
「…こんなところで何をしている、ゼブル」
 呆れて少年の名前を呼ぶと、彼は心外といった顔をした。
「言えた義理かな、サボりの大魔王さん」
 言いながらゼブルは手にした紙袋から焼きたてのパンを取り出し、一口ほおばる。
「で、さっきの彼女、ダレ?」
 見られていたらしい。
「きれいな人だったね。ヨウさんといい勝負かな」
「…今はカナメさんだ」
 彼はため息をつく。
「そっちはそっちでちゃんと進んでるんだね。…ちゃっかりしてるというかしっかりしているというか見境がないというか…」
 ゼブルは長年の友人であるが、このとき初めて憎たらしいと思った。
「で、カナメさんは放っておいて新しい彼女? それとも、さっきの彼女に生んでもらうの?」
「…馬鹿な」
 そう遠くない未来に、世界は節目を迎える。それに立ち会うメシアが、世界に必要だった。魔界で一番力のある自分と、地上の中でも強い魔の力を持った人間との間に生まれた子供が。
 要さんは生まれつき力が強く、こちらの事情もすぐに理解してくれた。世界の均衡が崩れていることにも、既に気づいているようだった。
 今の夫との子ということにしたいから、別れる前に片付けたい、今の夫にくっついて中国に来ただけだから、別れたら日本の実家に帰ると言われたときには目をむいたが。長らく訪れない間に、人間も強かになったものだ。色気が微塵もないとは、ゼブルの言である。
「…彼女に、力は感じない。個人的に、気になっているだけだ…」
「ソレを人間たちは恋と呼ぶのだよ、浮気者」
 悪戯そうな笑みを浮かべ、彼はこちらの腕をとった。
「あっちに美味しそうなタルトの並んだカフェがあるんだ。その話、詳しく聞きたいな」
「なぜ、お前に…」
「個人的に気になっただけ。友だちでしょ? …それに、日が暮れるまで彼女と会えないんだったらいい暇つぶしだと思うけど?」
 見られた上に聞かれていたらしい。
「ほらほら、早く」
 腕を引かれて、道を行く。
 そういえば彼はなぜこんなところにいるのだろう。それをまだ聞いていない。不思議に思いながらも、目指す店へと引っ張られていった。