冷たいひざまくら
『eir』より花言葉のお題をお借りしています)

1 あなたを見つめる(ヒマワリ)


「ルシファー様、城の囚人が、脱獄しました!」
 地上視察に来ていた自分の元に、突然そんな連絡が入った。
 囚人は追っ手を振り切り転移陣に飛び込んだあと、地上に出現したという。おそらく、資格を持たないものが急に転移空間へと迷い込んだために、魔界へ通ずる陣へ転送するのは危険だと判断したシステムが、地上へと排斥してしまったのだろう。
 彼の独房からは、一人残してしまった自分の息子への手紙が、何通も見つかっていた。刑期が長引く不安と子供への罪悪感にに耐えかねてのことであろう。情状酌量の余地はあった執行猶予付きの判決であったのになぜ、と思わないでもない。だが、閉鎖空間で連日の裁判に神経衰弱に陥ってしまうものは少なくない。それなのに脱出の気力だけはこちらの予想を易々と裏切ってしまう。
 少しだけその囚人を哀れに思いながら、人間の街を急いだ。先程急に感じられた悪魔の匂いは、その脱獄者に違いない。早く発見せねば、悪魔の存在を認めていない人間たちの間で騒ぎになってしまう。まだ、その時期ではない。
 匂いと気配を頼りに、脱獄者を探す。護衛の者にも散らせて、空からの捜索を任せている。何かあれば念信で連絡がくる。互いに、まだ発見できてはいないようだ。そして、脱獄者が危害を加える事態も、起こってはいないらしい。だが、いつそれが起こるとも、その逆が起こるとも知れない。軽く舌打ちをし、路地を曲がる。店と人の多いエリアは抜けたようだ。途端に喧騒が消え、植え込みの続く民家が並ぶ。その先にやや木の植わる広場があるらしい。身を隠すにはもってこいのその場所へ、足を向けた。
 そこは、遠目で見るよりは大きな公園だった。林にぐるりと囲まれて、いくらかの遊具とベンチが広場に点々としている。広場の真ん中には噴水があり、幼い子を遊ばせる母親たちの姿が見える。長閑な風景に軽く息をつきながら、風に乗る匂いを辿った。
「…?」
 その途中で、足が止まる。匂いの、流れてくる場所を、すぐに見つけた。
 ベンチに静かに腰掛けている女性の膝で、スカーフを掛けられている。光景の不思議さに思わず念信も忘れて見入ってしまった。自分の近くを、下校帰りの子供たちが不審そうに過ぎて行った。ふと、女性がこちらに目を留める。そして、柔らかく笑いかけた。
「こんにちは」
 鈴を転がすような声だった。美しく現実離れした声に、一瞬彼女のものだとは気付かず、それが自分へ向けられていたと認識するにはもう数瞬が必要だった。
 たっぷり三秒ほど経ってから、ようやく口を開くことができた。もっとも、あまりにも呆然としていたために、口は半分ほど開いていたのだが。
「…こんにち…は…」
 もとより慣れない言語の上、少しつかえてしまう。女性はもう一度笑うと、左手をそっと持ち上げ、手招きをする。自分はふらりと彼女に歩み寄り、促されるままにその隣へと腰掛けた。
「はじめまして、他の世界の方」
 女性は、やはり鈴を転がす、聞くものの神経を甘く痺れさせるような声で話す。うっかりとすれば気が抜けそうになるのを堪えながら、緩慢な動作で頷いた。
「…はじめまして、この世界のお嬢さん」
 彼女の言い方をまねして言うと、ふふ、とハンドベルのように笑う。艶やかな黒い髪が、肩といっしょに揺れる。
「言葉がお上手ね。よくいらしてるのかしら?」
 お召し物もこちらの物ねと彼女が小首を傾げると、黒真珠のような瞳がこちらを覗き込む。美しい娘だ。今さらのように思い、頷いた。
「ああ…この国には、初めてでしたが…」
「まあそうなの?私はこの国でしか暮らしたことがないのよ。お会いできるなんて嬉しいわ」
 目を細めて、心底嬉しそうに笑う。黒い瞳を覆う白いまぶたは、淡い桃色が目尻に浮かんでいる。五つほど、彼女が幼くなったように見えた。成人は迎えているだろうが、全体的な雰囲気は少女のように柔らかではかなげだ。
「…ええ……」
 自分が何のためにここにいるのか半ば忘れてしまいそうになりながら、自分はただ頷くだけだ。
「嬉しい奇遇のついでにお尋ねしますけれど、この子は、あなたの世界で暮らしていた子かしら?」
 そう言って、彼女は膝の上のスカーフを優しく撫でる。その左の薬指に指輪が光っているのを眺めながら、その薄い織布が覆っているものに注意を向け、思わずベンチから腰を浮かす。
 オレンジと薄い黄緑のチェック模様の下には、彼が今まで探していていた脱獄者がいた。しかし、それは牢を脱出したときの姿をしてはいなかった。悪魔の姿だと目立ってしまうためか、この地上に生きる珍しい鳥に擬態をしている。高位悪魔であったから、姿を変えることができたのだ。だが、無理矢理な空間転移に加えての変化に、体力は限界に来てしまったのだろう。尾羽の数本と鉤爪だけは、もとの悪魔のそれだった。
「あら、子なんて言っていいお年かどうかも知れないわね。…それで、あなたはこの子をご存知かしら?」
 鋭い爪に臆することなく、彼女はその異形のものの体を撫でる。それは、既に物言わぬ躯と成り果てていた。
「あなたが来る少し前までは、息もしていたんだけれど…。とても弱っていたようね、すぐに冷たくなるのはかわいそうだから、こうやってお日さまに当たっていたところなのよ」
 ゆったりとした動作で、彼女はスカーフ越しに死体を撫でる。彼女の手が動くたびに、中指の指輪がきらりきらりと光を反射する。
「……その者は、囚人でした。服役中だったのですが、脱走したのです」
 暖かな空気に、ベンチの隣に戻る気にはなれず、彼女の斜め前に立ったまま告げた。彼女は死体を撫でる手を一瞬止め、そして死体に向かって一度首をかしげ、また同じように撫で始めた。
「おどろいた。咎人を罰するのは人間だけではないのね。それで、あなたはこの子の身柄を確保するために来たのかしら?」
「……目的は別です。しかし今はそれが最優先されるべきことです」
 もしや彼女はこの変わった鳥を手放すのを拒んでいるのではないかと思い始めながら、静かに答えた。彼女は死体をもう一度そっと撫でると、スカーフにくるんだまま、こちらへ差し出した。
「死んでしまってからは、もうどんな罪の告白もできないわ。心残りのないように、埋葬してあげて」
 笑顔を消した真摯な表情に向かい、自分もまた神妙な面持ちでその死体を受け取った。やわらかい絹を通した体温は、まだほんのりと暖かだったが、手にかかる重さは羽根のように軽かった。
「……ご協力、感謝します」
 鮮やかな死装束を抱えたまま深く礼をすると、彼女はいつの間にかまた笑顔に戻っていた。
「いいえ、私は看取っただけよ。…はるばるご苦労様、あなたも、その子も」
 ゆっくりと、立ち上がる。長い黒髪は、背中まで伸びていた。よく梳かれ、さらりと軽く風に舞う。日の光も、彼女の髪に当たると嬉しそうに跳ねていっそう輝いた。
「……それでは、失礼します」
 今度は軽い会釈だけで彼女に背を向け、数歩歩き出したところで、
「…異界の方、少し待たれて」
 女性に呼び止められた。念信を手早く送ろうと思っていたそのタイミングに、少々驚きながら、女性を振り返る。
「お急ぎのところごめんなさい。…あなた、これからまたこちらへいらっしゃるご用はあるの?」
「…いえ、今のところは」
 地上視察の途中、この国には隣の大陸からついでに寄っただけだ。脱獄犯の緊急通知が入らなければ、間違いなく来ることを考えもしなかった国だろう。古来から八百万の神の存在する土地ではあるが、最近の信仰は希薄だ。途絶えるのも時間の問題と言える。そんな国へ自ら立ち寄り、不毛に神経を磨り減らすような真似を、今回の視察では予定していなかった。
「残念ね」
 彼女は、少し寂しそうに笑った。
「また、お会いしたいと思っていたのに」
 その言葉に、山積みになった執務の一切を、しばし忘れた。
「…またこのあたりへ来る予定があります。その時に」
 予定などなかった。けれど、再び見えたかった。
「嬉しいわ」
 彼女は花のように笑った。
「お名前を聞いてもいい?私は、甲斐というの」
「ルシファーです。カイさん、また会いましょう。楽しみにしています」
 そうしてもう一度礼をして、彼女に背を向けた。彼女は、もう呼び止めなかった。
 腕の中の死体の熱は、徐々に失われている。体も硬くなり、重みも増してきた。公園の外れの木陰で、供の悪魔へ信号を送った。